巨女のセールスマン
命の掛け金
「第一章 余命三ヶ月」
「……余命は、あと三ヶ月です」
白い診察室で、時計の秒針だけが耳に残った。小井佐人成、三十五歳。独身。健康診断で異常を指摘され、念のため受けた検査の結果は末期がんだった。
仕事ばかりの人生だった。上司は「君がいないと困る」と言い、後輩は毎日のように助けを求めた。自分は会社に愛されている。そう信じていた。
入院して最初の週、上司と同僚が果物を持って十五分ほど見舞いに来た。だが、それきりだった。会社の連絡網には飲み会の写真が流れ、人成の名は誰の話題にも上らなかった。
「俺がいなくても、何も変わらないんだな」
窓の外では人々が忙しく行き交う。病室だけが時間から取り残されていた。
「……もう、早く終わりたいなあ」
「ほほう。寂しいことをおっしゃいますねえ」
振り返ると、黒い礼服を着た丸々とした紳士がいた。白い歯を見せ、不自然なほど愛想よく笑っている。
「わたくし、福々満蔵と申します。満たされない方に、ささやかな幸福をお届けする仕事でしてねえ」
「宗教なら帰ってください」
「おやおや。お金も信仰も不要ですよ。もし病気がきれいに治るなら、どうなさいます?」
人成は息をのんだ。「そんなこと、できるんですか」
「ただし条件が一つ。二度と、死にたいと思わないことです。どれほど辛くとも、心の中でさえ」
「病気が治るなら、そんなこと思うわけありません!」
「では、契約成立です」
満蔵が指を鳴らした。パチン。病室が真っ白に弾けた。
「第二章 取り戻した人生」
一ヶ月後、医師は検査画像を何度も見直した。「がんが……消えています。説明がつきません」
人成は泣いた。生きられる。そう分かった途端、今まで当たり前だった朝日さえ眩しく思えた。
退院後、会社を辞めた。上司は形式的に引き留めたが、手続きはあっけなく終わった。受け取った保険金や給付金は約500万円。しばらくは働かなくても暮らせる。
だが自由な日々は長く続かなかった。朝起きても行く場所がない。誰とも話さない。500万円も使えばなくなる。
そんなとき、テレビが安田記念の宣伝を流した。競馬は昔から好きだった。出走表にはデーモンズアイ、単勝1.5倍。前哨戦ヴィクトリアマイルでノーステッキで0.6秒差の圧勝だった。専門家も揃って本命を推す圧倒的人気馬だ。
「500万円なら、払戻しは750万円……」
何度も購入画面を閉じた。だが翌朝、人成はつぶやいた。「一回だけ。これで勝てば安心できる」
単勝、デーモンズアイ。購入金額、500万円。指が震えたまま、確定ボタンを押した。
「第三章 安田記念」
発走時刻。人成はテレビの前で祈っていた。
『各馬ゲートに収まりました……スタート! ああっと、デーモンズアイ出遅れた!』
「おい、嘘だろ!」
人気馬は最後方。直線に向くと凄まじい脚で追い上げた。人成は立ち上がって叫ぶ。「差せ! 差してくれ!」
『先頭は七番カナディアンキング! デーモンズアイ猛追するも……七番一着! デーモンズアイは二着!』
二着。単勝馬券は紙くずになった。
「なんで俺ばっかり……」
命を失いかけ、会社に忘れられ、やっと取り戻した人生だった。なのに500万円を一瞬で失った。
「……死にたい」
考えが頭をよぎった瞬間、パチン、と乾いた音がした。
「いやあ、実に残念ですなあ」
背後には福々満蔵。「お約束をお忘れですか?」
「違うんです! 今のは、つい……!」
「命が欲しいと願い、お金を失うと命を捨てたいと願う。人間とは難しいものですなあ」
満蔵の指が人成へ向いた。「命のありがたさを、今度こそ知っていただきましょう」
「ドォォォ――ン!」
意識が消えた。
「第四章 白い広場」
目覚めると、人成はどこまでも続く白い広場に倒れていた。建物も木もない。足元は大理石のように滑らかだった。
「あら、やっと起きたのね」
女の声が空から降ってきた。「あなた、約束を破ってしまったのね。かわいそうだけど、楽しませてもらうわ」
ドン。ドン。地面が規則正しく揺れた。遠くの白い壁が動く。それは壁ではなかった。巨大な女の脚だった。
彼女は長い黒髪と赤い口紅、深紅の大胆な衣装をまとっていた。黒いエナメルのハイヒールは一本だけでも高層ビルのようだった。何千倍もの大きさの彼女が、人成を覗き込む。
「まあ、本当に小さいのね」
巨大な指が降りてくる。「ちょっと触ってみてもいいかしら」
「待って!」
ぷちっ。暗転。次の瞬間、人成は元の場所に立っていた。
「……生きてる?」
「うふふ。何度でも元に戻るのよ。福々さんがくれた、壊れないおもちゃですもの」
女は嬉しそうに笑った。「さあ、何をして遊ぼうかしら」
「第五章 鬼ごっこ」
「十秒だけ待ってあげる。あなたが逃げる役、私が鬼よ」
女が目を閉じた。人成は全力で走った。十秒後、巨大な影が空を覆う。
「あら、まだそこなの?」
ドスン。ぷちっ。暗転。そして復活。
何度走っても、女の一歩は人成の何百歩より大きい。ついに彼は走るのをやめた。
「第六章 脚登り」
「今度は私の脚を登ってちょうだい。膝まで来られたら解放してあげるわよ」
女は黒いハイヒールを脱ぎ、長い右脚を伸ばした。深紅のミニスカートと金色の装飾が遠くに見える。人成の前には山脈のような足首が横たわっていた。
皮膚の細かな凹凸を頼りに、人成は一歩ずつ登った。女が足首を動かすたび、世界が傾く。
「なんだか、くすぐったいわね」
「俺です! 今、登っているんです!」
「分かっているけど、むずむずするのよ」
女は反射的に脚へ手を伸ばした。「ちょっと掻かせてちょうだい」
巨大な掌の影が迫る。「やめて!」
パァン。ぷちっ。
白い広場で復活すると、女は脚をさすっていた。「あら、ごめんなさい。つい手が出ちゃったわ」
「あなたが登れと言ったんでしょう!」
「じゃあ今度は左脚にしましょう。たぶん大丈夫よ」
彼女は笑い、また脚を伸ばした。
「第7章 靴の迷宮」
女は両方の黒いハイヒールを脱ぎ、人成の前に置いた。靴の入口は洞窟のように暗く、内側の縫い目は巨大な壁となって続いていた。
「つま先まで行って戻ってきたら成功よ」
人成はヒールの中に入り慎重に歩き始めた。入口の光が小さくなる。
「あら? どちらのヒールだったかしら」
外で女が片足を持ち上げた。人成は走り出した。「まだ中にいます!」
「あ、そうだったわね。それじゃ十秒で外へ出られるか競争しましょう」
「いーち、にーい……」
光が遮られる。人成は出口へ走ったが、巨大な影は容赦なく近づく。
「きゅーう、じゅう」
ドォン。暗転。
広場で目覚めると、女はすでに靴を履いていた。「今回は私の勝ちね。次は何にしようかしら」
「最終章 命の値段」 どれほど時間が経ったのか、人成には分からなかった。遊びは日替わりで、失敗すれば暗転し、何事もなかったように白い広場へ戻る。病気にもならず、老いもせず、終わりだけが訪れない。
「……お願いです。福々さんに会わせてください」
女は笑った。「あら、福々さんなら、ちゃんと見ているわよ」
足元に黒い礼服の紳士が立っていた。
「福々さん! もう一度だけチャンスを!」
満蔵は静かに首を振る。「小井佐さん。あなたはもう十分にチャンスをいただいたでしょう? 三ヶ月しかなかった命を、わたくしは期限なしにして差し上げた」
「こんなの、生きているって言わない!」
「ほほう。では、生きるとは何でしょうねえ」
満蔵は懐から安田記念の馬券を取り出した。デーモンズアイ、単勝500万円。
「命を取り戻したあと、あなたはお金を失っただけで、命を捨てたいと願った。ですがもう安心です。病気の心配も、老後の心配もございません」
「お願いです……」
「それでは、末永くお幸せに」
満蔵の姿が消える。女の声が降ってきた。
「あら、お話は終わった? じゃあ、続きをしましょうね」
巨大な手が空を覆った。人成の悲鳴は白い広場に吸い込まれた。
遠い世界で、満蔵は手帳を閉じる。小井佐人成の名前の横には赤い文字があった。
『契約履行済・永久保証』
「永遠の命が、必ずしも幸せとは限りませんからねえ」
満蔵は笑い、夜の街へ消えていった。
――完――